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Project B/9月 vol.10「B食を支える男性」
カトラリーにこだわり、本物を作り続ける老舗/Guest:小林 貞夫さん 小林工業株式会社(新潟県燕市) 代表取締役社長
江戸時代からの技術を蓄積した
新潟県燕市といえば、洋食器生産の本場として有名なところだ。中学校の地理の時間に、習った記憶があるのではないだろうか。小林工業はこの地にあって、1868年に創業した老舗である。なんと明治維新の年だ。
「このあたりは、昔から水害に悩まされたところで、荒地(あち)なんて言われていたんですよ」
小林貞夫社長の説明だ。信濃川が氾濫するたびに、田畑が荒地と化してしまう。しかし、このことが、この地を洋食器の本場にしたのだそうだ。
「徳川幕府の初期、この地は幕府の直轄地だったんですが、大谷清兵衛という代官が水害に苦しむ農民たちに副業を教えたそうです。江戸から和釘(わくぎ)職人を呼んだんですよ」
和釘づくりは、またたく間にこの地に定着し、金属加工の職人芸を集積していくことになる。江戸の明暦の大火(1657年)では、復興時におおいに燕産の和釘が用いられたという。
そして明治維新。岐阜県関市の日本刀職人たちもそうであったように、燕の和釘職人たちも、時代に翻弄されながら、自らの技術を生かす道を必死に探した。鍬(くわ)、鋤(すき)、鎌(かま)などの農具や、矢立(やたて)、火箸(ひばし)、灰ならし、キセル、ヤスリなどの生産に活路を見いだしたのだった。 →
フォーク
スプーンの金型。
フォーク
フォークは手にささらず、しかし肉にはスパッとささる。尖端の形状に工夫がある。
翌大正4年(1915年)、小林工業は日本で最初にカトラリーの生産を始めた。素材は真鍮で、ニッケルメッキで仕上げた。フォークに次いでスプーンを作り、ナイフは岐阜県関市から刀鍛冶職人を招き、その技を学んで作りあげた。
「当社の二代目社長は『いいものは不況に強い』というのが口癖で、ニッケルメッキより堅牢なクロムメッキを導入したり、素材を洋白にしたりと、どんどん工夫をしていったそうです。また、職人を育てるのがうまくて、7人の弟子を独立させています」
という小林は、六代目の社長である。
三代目は、二代目が切り開いたカトラリー生産という新分野に機械化を持ち込んだ。先見の明があったというべきだろう。国内市場だけを見ていると、手工業で十分。しかしカトラリーは、世界に市場があるのだ。
昭和2年には、ステンレス(鉄に1‐3%のクロムを添加した合金)でカトラリーを作りはじめた。ステンレスは周知の通り、錆びない素材で、使い勝手がいい。「いいものは不況に強い」だけでなく、「世界で強い」のである。ステンレス製カトラリーを大量生産できた燕は、すぐに輸出で潤うようになった。
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ステンレスを使いこなして世界を席巻
昭和に入っても、時代による翻弄はまだまだ続く。せっかく世界に通用するところまで育てた工場を、国に召しあげられる時代がやってきた。
戦争である。日本は日中戦争から第二次世界大戦へと迷い込み、小林工業の機械設備も軍需転換されてしまった。平和の象徴ともいえるカトラリー生産設備の軍需転換は、痛恨の極みだったに違いない。
戦争中を通じて、燕が爆撃目標とならなかったのは不幸中の幸いだった。戦後、すぐにカトラリー生産に戻り、アメリカ軍からの注文を受けることで復活を遂げる。小林工業自身、昭和22年(敗戦の2年後)に法人組織となり、「ラッキーウッド」(LUCKYWOOD)というブランドの商標登録もした。
「四代目がブランドを作ったんです」
という小林。つまり先代である。ラッキーウッドという名前をつけただけでは、ブランディングはできない。確固たるブランドとして知られるようになったのは、先代がステンレスをさらに使いこなし、「いいもの」を作り続けたからだろう。
ステンレスは錆びない金属として一世を風靡したが、そのままでは、カトラリーに向かない面もある。関のマサヒロもそうであったように、ステンレスという素材そのものに工夫をし、加工技術を磨いた。
「ステンレス製カトラリーを、銀器に迫るクオリティのものにまで高め、広めたのが日本です。また、そうした技術を一社が独占せず、燕全体で共有したことも大きい」→
特注品
高級品は熟練工がひとつひとつ手でプレスしていく。
特注品
普及品は自動プレス機がスプーンの型を押していく。
私は、「スプーンなんて、百円ショップで売っているもので十分」というセンスが、あまり好きではない。直接口に触れるものであるし、やはり、手にもった感触がとてもよく、食事に悪い影響を与えない「本物」を使いたいものだ。いいスプーンでカレーを口に運ぶと、それだけで「おいしい」と感じられる。
たしかに洋白銀器はステンレス製品に比べると高価だが、何年も飽きずに使えるなら、トータルのコストパフォーマンスはとても高い。
「フォークひとつとってみても、刃先の処理に工夫があります。手にあててもささらないが、ステーキにはさっと入る。そして落ちない」
その絶妙の角度をつけるのは、小林工業の熟練工の仕事だ。ただ単に、装飾が派手になるというだけではない。刃先の形状ひとつとってもノウハウがあり、アイスクリームもおいしく食べられる。世界に誇るこの技術を、私たち消費者が理解し、支えていきたいものだと思う。
アイスクリームを食べて金気を感じ、肉がフォークからスルッと抜けてしまったりするなら、偽物をつかまされている証拠である。ぜひLUCKYWOODの製品を探して欲しい。それだけであなたの食事のグレードがあがるはずだ。
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コラム
和釘
燕の和釘を流通させたのは、水運だった。隣の三条に行き交う北前船(三条北前船)が、京都の呉服や小間物を東北に運び、和釘を全国に広める。北前船が繋留される河岸には、200軒もの問屋がならび、「鍛冶屋銀座」と呼ばれたのだという。小林工業も、この水運を利用し、大阪と結びつきが強かった。
弥彦山の銅
元禄時代(1688‐1703年)に開かれた間瀬銅山のこと。この銅は伸張性に富んだ良質のもので、1枚の銅板をさまざまな金槌で打ち延ばして加工する「鎚起」という加工技術が普及した。
火鉢と富山県
富山県高岡市は、加賀藩の前田利長(前田利家の息子)が産業振興として鋳物師を呼び寄せたことから、鋳物産業が盛んとなり、火鉢も生産された。この鋳物産業の伝統が、富山のアルミ産業へとつながる。自動車用で有名なBBS社(ドイツ)のアルミ鍛造ホイールも、高岡で作られている。
建築様式の変化
明治時代に入ってから日本に紹介された洋釘は、建築様式の変化とともに和釘のシェアを奪い、明治20年頃からは、完全にとってかわるようになった。
大正時代の注文
今日の私たちの東京‐新潟間の距離感と、大正時代のそれとは異なることに留意しておきたい(大阪からなら、なおさらのことである)。上越新幹線も、関越自動車道もない。それどころか、新潟県‐群馬県の山なみに行く手を阻まれ、信越線経由で新潟に行くほかなかった。その時代の「注文」であり、「流通」なのである。いかに燕の金属加工技術が高かったかを示しているといっていいだろう。 清水トンネルが完成し、上野‐新潟間が直接結ばれたのは、昭和6年9月1日のことである。これにより、上野‐新潟間の旅程は4時間も短縮されたという。
大正デモクラシー
1910年代後半から起きた、自由主義・民主主義的な風潮、およびその運動をいう。その一環として、台所の改善論議もなされた。当時の日本の台所は、うずくまって調理を行うことが多かったのを、立ったままでできるようにすることが改善の主眼だった。そのためには、電気・水道・ガスの普及が不可欠だったが、ほんとうにそれが普及するのは、昭和に入ってからのことである。
洋白
銅とニッケル、亜鉛の合金のこと。光沢や色が銀と似ていることから、洋白もしくは洋銀、あるいはニッケルシルバーと呼ばれる。洋白でつくられたカトラリーに銀メッキを施したものが、洋白銀器である。純銀のカトラリーと比べて手にもったときの感触は遜色なく、かつ、安価にできる。洋白銀器の登場で、「銀のスプーン」が一挙に身近なものとなった。
 
小林 貞夫さん
小林 貞夫さん
「矢立や火箸、灰ならし、キセルなどの生産は、江戸時代から始まっていました。弥彦山の麓に銅山が開かれ、良質の銅が生産されたことも関係しています。また、お隣の富山県が火鉢の産地だったことも大きい」
信濃川は暴れもしたが、水運という水の利ももたらした。それに、弥彦山という地の利を生かして、職人たちは活躍をしたのである。
「このあたりの人々の気質が、職人に向いていた、というのもあったんだと思います」
と小林。川が氾濫しても、諦めず、前向きに生きる燕の人々。口数は少ないが、打たれ強く、負けん気も強い。
「難しい注文があったとき、最初に『そんなのできっこない』という反応をするんです。でも、しばらくすると、注文したものより、立派なものを作ってくる。それが燕の職人です」 この打たれ強い気質を「のらぎ」というのだそうだ。
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「のらぎ」でカトラリーに立ち向かう
時代の荒波は、明治維新による建築様式や生活様式の変化だけではない。大正時代には紙巻きタバコの流行で、キセルの需要が激減してしまった。矢立も万年筆が普及したことで、姿を消した。
明治時代末期からアルミニウム製品のシェアが大きくなっていたところに、大正3年の第一次世界大戦により、銅の価格が高騰し、この地の銅器産業は大打撃を受ける。燕の歴史は、業種転換の歴史であるといっても過言ではないほどだ。
「ちょうどそこに、大阪の金物問屋さんから、金属洋食器の注文が、当時のわが社に舞い込んだのです」
世はまさに大正デモクラシーが始まらんとするところであったが、一般的な日本人はまだまだ着物で尋常小学校に通い、竈(かまど)で炊飯をしていた時代である。
「これを作ってみてくれないか」
と大阪の金物問屋が持ち込んだフォークは、ほとんどの人にとって、初めて実物を目にするものだったに違いない。それでも、小林工業の職人たちは、初めて見るフォークを前に、持ち前の「のらぎ」を発揮した。
手にとっては観察し、作り方を思案する。伸銅・圧延・彫刻・研磨・鍍金など、作るのに必要な金属加工技術はもっている。サンプルを見るだけで、だいたいの想像はついた。「そんなのできねえ」という顔をしながら、創意工夫をした。←
加工の違い
左が高級品。手によりなじむ形をしている。こうして比べると加工の違いが一目瞭然。
洋白銀器
洋白銀器のエデンシリーズ。40ミクロンもの銀メッキが施されている。
特注品
世界中のホテルやレストランから特注が舞い込む。
燕のステンレス加工技術は世界一である。アップルのヒット製品・iPod U2バージョンの背面は、鏡じゃないかと思うほど美しいステンレスで覆われているが、これも、燕の職人たちが磨いたものだ。
見た目の美しさだけではない。食べたときの感触も違うという。
「アイスクリームを食べるとわかります。質の低いステンレスでできたスプーンは、食べたあと、金気を舌が感じてしまう。なんかヘンな味がすることがあるでしょう?サビが原因というケースもありますが」
言われてみるとその通りだ。あれは金属の味だったか。
「ステンレスは鉄にクロムを混ぜたものですが、さらにニッケルを付加すると質が高くなり、金気も感じなくなります」
昭和の初期からステンレス加工に挑戦し、金型の作り方を工夫し、技を磨き、小林工業のステンレス食器は、世界で用いられた。戦後すぐに日本の輸出産業として発展したのはカトラリー生産であり、最初の日米貿易摩擦は、カトラリーをめぐるものだったという。
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洋白銀器にもこだわる唯一の企業
ステンレス全盛の現代にあっても、小林は、洋白銀器の生産を続けている。小林工業製の洋白銀器と銀器は、世界の一流ホテルからも特別注文がくる逸品だが、いかんせん、一般家庭への普及度はきわめて低い。扱いにくいからである。
「でも、いまうちがこれをやめたら、日本で作れる企業がひとつもなくなってしまうという思いでやっています」
という小林。「食べる道具」としてみれば、ステンレス製品がいくら頑張っても、「洋白銀器にかなわないところがある」からだ。
「見た目の美しさもそうですが、熱伝導性の良さと表面のなめらかさも光ります」
という小林は、再び、アイスクリームを例に説明する。
「金気はもちろん感じませんし、それ以上に、アイスクリームをすくいやすく、食べやすい。表面がなめらかなうえ、熱をすぐに伝えるので、力を入れなくても、すっとアイスクリームをすくうことができて、舌の上にさっと乗る。ここが違う」
聞けばなるほど、という話である。
たしかに使い勝手のよさ、という点では、ステンレス製品がベストだ。でも、カトラリーは「食べるための道具」であって、扱いやすいとか、磨かなくてもいいといったメンテナンス性にばかりこだわるのは、本末転倒である。 ←
特注品
グラインドで最終加工中。
iPod U2バージョン
燕の技術が生んだiPod U2バージョンの美しい外観。
ホームページ
小林工業株式会社 ホームページ
http://www.luckywood.jp/
小林工業株式会社
本社・営業センター
新潟県燕市南5-11-35
TEL. (0256) 63-2519
東京営業所
台東区鳥越1-30-8
TEL. (03) 3864-0757

おススメB食店
まつや小林さんのおススメB食店は、小林工業から歩いて数分のところにあるラーメン店「まつや」さん。「太麺と煮干し系のダシに背脂という組み合わせのラーメンは、このあたりが発祥なんですよ。職人が夜食に食べるにあたって、冷めにくいようにと脂をのせたのが始まり」だそうです。


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(文・写真 古瀬幸広)