「矢立や火箸、灰ならし、キセルなどの生産は、江戸時代から始まっていました。
弥彦山の麓に銅山が開かれ、良質の銅が生産されたことも関係しています。また、お隣の富山県が
火鉢の産地だったことも大きい」
信濃川は暴れもしたが、水運という水の利ももたらした。それに、弥彦山という地の利を生かして、職人たちは活躍をしたのである。
「このあたりの人々の気質が、職人に向いていた、というのもあったんだと思います」
と小林。川が氾濫しても、諦めず、前向きに生きる燕の人々。口数は少ないが、打たれ強く、負けん気も強い。
「難しい注文があったとき、最初に『そんなのできっこない』という反応をするんです。でも、しばらくすると、注文したものより、立派なものを作ってくる。それが燕の職人です」 この打たれ強い気質を「のらぎ」というのだそうだ。
時代の荒波は、明治維新による
建築様式や生活様式の変化だけではない。大正時代には紙巻きタバコの流行で、キセルの需要が激減してしまった。矢立も万年筆が普及したことで、姿を消した。
明治時代末期からアルミニウム製品のシェアが大きくなっていたところに、大正3年の第一次世界大戦により、銅の価格が高騰し、この地の銅器産業は大打撃を受ける。燕の歴史は、業種転換の歴史であるといっても過言ではないほどだ。
「ちょうどそこに、大阪の金物問屋さんから、金属洋食器の
注文が、当時のわが社に舞い込んだのです」
世はまさに
大正デモクラシーが始まらんとするところであったが、一般的な日本人はまだまだ着物で尋常小学校に通い、竈(かまど)で炊飯をしていた時代である。
「これを作ってみてくれないか」
と大阪の金物問屋が持ち込んだフォークは、ほとんどの人にとって、初めて実物を目にするものだったに違いない。それでも、小林工業の職人たちは、初めて見るフォークを前に、持ち前の「のらぎ」を発揮した。
手にとっては観察し、作り方を思案する。伸銅・圧延・彫刻・研磨・鍍金など、作るのに必要な金属加工技術はもっている。サンプルを見るだけで、だいたいの想像はついた。「そんなのできねえ」という顔をしながら、創意工夫をした。

燕のステンレス加工技術は世界一である。アップルのヒット製品・iPod U2バージョンの背面は、鏡じゃないかと思うほど美しいステンレスで覆われているが、これも、燕の職人たちが磨いたものだ。
見た目の美しさだけではない。食べたときの感触も違うという。
「アイスクリームを食べるとわかります。質の低いステンレスでできたスプーンは、食べたあと、金気を舌が感じてしまう。なんかヘンな味がすることがあるでしょう?サビが原因というケースもありますが」
言われてみるとその通りだ。あれは金属の味だったか。
「ステンレスは鉄にクロムを混ぜたものですが、さらにニッケルを付加すると質が高くなり、金気も感じなくなります」
昭和の初期からステンレス加工に挑戦し、金型の作り方を工夫し、技を磨き、小林工業のステンレス食器は、世界で用いられた。戦後すぐに日本の輸出産業として発展したのはカトラリー生産であり、最初の日米貿易摩擦は、カトラリーをめぐるものだったという。
ステンレス全盛の現代にあっても、小林は、
洋白銀器の生産を続けている。小林工業製の洋白銀器と銀器は、世界の一流ホテルからも特別注文がくる逸品だが、いかんせん、一般家庭への普及度はきわめて低い。扱いにくいからである。
「でも、いまうちがこれをやめたら、日本で作れる企業がひとつもなくなってしまうという思いでやっています」
という小林。「食べる道具」としてみれば、ステンレス製品がいくら頑張っても、「洋白銀器にかなわないところがある」からだ。
「見た目の美しさもそうですが、熱伝導性の良さと表面のなめらかさも光ります」
という小林は、再び、アイスクリームを例に説明する。
「金気はもちろん感じませんし、それ以上に、アイスクリームをすくいやすく、食べやすい。表面がなめらかなうえ、熱をすぐに伝えるので、力を入れなくても、すっとアイスクリームをすくうことができて、舌の上にさっと乗る。ここが違う」
聞けばなるほど、という話である。
たしかに使い勝手のよさ、という点では、ステンレス製品がベストだ。でも、カトラリーは「食べるための道具」であって、扱いやすいとか、磨かなくてもいいといったメンテナンス性にばかりこだわるのは、本末転倒である。
