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Project B/8月 vol.9「B食を支える男性」
本場で磨いた腕で創意工夫を続ける菓子職人/Guest:酒井 雅夫さん フランス菓子店・クレモンフェラン シェフ
「お酒使いを勉強してくるといいよ」
東京・広尾——駅から有栖川宮記念公園に向かって歩くと、つきあたりのビルにひっそりと、しかし誇らしげにClermont-Ferrandのエンブレムがある。クレモン フェランは、レストランのベーカーシェフから独立した酒井雅夫が、1983年にオープンしたフランス菓子店だ。
フランスの地理に詳しい人なら、クレモン フェランと聞くと、即座に街並みを思い浮かべるかもしれない。これはフランスの都市の名で、酒井がフランス菓子の修行をしたところである。
「あの頃は、なんにも知らないままフランスに行ったという感じでした」
という酒井の渡仏は1974年。その当時の日本の洋菓子界は、まだまだ見よう見まねの域を脱していない時期だった。
「あまりにもなんにもわからないので、駒込の洋菓子店・カドのシェフに手紙を書いて、アドバイスを欲しいと言ったんです」
カド(CADOT)は川端康成も通った老舗の洋菓子店(1960年創業)。酒井が手紙を書いたオーナーシェフ・高田壮一郎は、内閣総理府より許可を受け渡仏した菓子留学生第一号という人物である。
「お酒について勉強してくるといいよ」→
グリオット
1年間、キリッシュに漬け込まれたさくらんぼを使ったグリオット
グリオット
漬け込まれたさくらんぼを自家製フォンダンで包み、さらにショコラでくるんである。
ラムカン
ラムカン・アプリコット。6月限定のスリーズは、杏ソースの部分に漬け込んだキリッシュからつくられたソースが使われたもの。
モンブラン
マロンクリームが中に仕込まれた独特のモンブランは大人気。
頼りになるのは、自分の舌と、身につけた技術だけである。本場で学びとったエッセンスを大切にしつつ、自ら創意工夫し、お客様と真剣勝負をし、その結果をフィードバックして、また工夫する。
「留学時代の4年間で基本を学び、戻ってきてからの4年間で、私の技術が確立したのだと思います」
という言葉に嘘はないだろう。帰国後の毎日が、酒井を「フランス菓子の職人」から、「酒井のお菓子の職人」へと変貌させたのである。
「オーナーが凄い人で、『やりたいようにやりなさい』と言ってくれたので、どんどん工夫できたんです。この方にはいまでも感謝しています」
オーナーが与えてくれた場が、レストランだったということも幸いした。商品を並べるのではなく、コース料理の最後のデザートを担当するので、毎日のように工夫しても平気だったし、融通もきく。
これまでを振り返りながら、「結局、好きでないとできませんよ」と笑う酒井。「じつは毎朝、感動しているんです」という。
その感動は、オーブンをあけた瞬間にやってくる。
「最初は見ての通り、いわば、ただの果物、ただの粉じゃないですか。それが、手を加えてオーブンの中に入れると、猛烈においしそうな香りを漂わせる食べ物に変身するんです」
自らの腕で、粉を香り高き洋菓子に育て上げることを、酒井はいつも楽しんでいる。
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自然体の創意工夫
酒井の口ぐせは、「僕にはこだわりがない」である。「やれ、アーモンドはスペインのどこがいいとか、なんとかいろいろ言いますけれど、僕はそういうのにはこだわらない。たしかに香りが特別にいいアーモンドパウダーもあるけれど、それを洋菓子に使っていいかというと、そうでもなかったりする。素材の香りを殺したりすることもあるんです」
取材者泣かせのシェフだ。料理関係の記者は、「ナントカ産の○×を使うのが味の秘訣です」というようなこだわりを引き出そうとする。酒井の返答は素っ気ない。「材料はすべてそのへんで買えるものを使っているだけですよ」というのである。
この発言は、酒井の反骨精神の顕れだと見るべきだろう。クレモン フェランの店頭の目立つところに、華々しいシェフの留学時代の成果を示す飾りつけがないのと同じである。経歴や材料がおいしいお菓子を作るわけではないのだ。
「能書きなんぞいらない。お客様が食べて、『おいしい』と感じてくれるかどうかがすべてだ」と酒井は思っているに違いない。「俺が選んだ材料で、俺が作っているんだ。能書きではなく、俺を信じて欲しい」というのが、彼の本音だろう。こだわりの材料名ではなく、腕と工夫の成果を味わってくれ——ショウケースに並ぶ酒井の洋菓子は、そう語っているのだ。 →
二人で手際よく作業
二人で手際よく作業を進めていく。
厳しさに満ちた厨房
学ぶ者の真剣さと教える者のやさしさ、厳しさに満ちた厨房。
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コラム
酒井雅夫
酒井雅夫
1947年東京都生まれ。フランス料理アカデミー日本支部会員。高校卒業後、「姉の勧めでなんとなく」日本菓子専門学校に入学。その後同校助手として勤務し、1974年に渡仏。1977年、シャルルプルーストコンクールにて日本人初の優勝。1983年クレモン フェランをオープン。
Clermont-Ferrand
クレモン フェランは、フランス中央部ピッドーム県の首都。ミネラルウォーターで有名なヴォルヴィックの麓にある。
クレモンフェラン
東京都港区南麻布4-5-65
03-3444-6944
http://clermont-ferrand.jp/
クレモンフェラン
カド
東京都北区西ヶ原1-49-3
03-3910-6241
酒使い
酒井がよく使うのは、オレンジとチェリーの果実酒に、ラム酒だ。「お酒を使っていると言うと、『それじゃ、子供には食べさせられないわね』という反応をされることがあり、残念」という。ほとんどは香りづけに利用するのみで、アルコール分は揮発しているから、ごくわずかの例外を除いて、子供であっても、クレモン フェランのお菓子で酔うということはない。
石油ショック
1973年10月に起きた第4次中東戦争を背景に、アラブ諸国が石油戦略を発動し、石油の減産・禁輸を行ったことによる、世界経済のパニックをいう(第一次石油ショック)。1974年春には、原油価格が一挙に1972年の水準の5倍に値上がりをした。
なお、1979年2月のイラン革命によって、再び原油価格が急騰し、第2次石油ショックが起きている。
ハーグ事件
1974年9月13日、オランダ・ハーグ市内にあるフランス大使館に日本赤軍メンバーの西川純、奥平純三、和光晴生が侵入し、大使、大使館職員ら10数人を人質に取って立てこもった事件。要求はフランス当局に拘束されている仲間の釈放だった。30万米ドルの現金と釈放された仲間と一緒に、犯人たちはダマスカスに向かい、シリア当局に投降した。
日本ではほとんど知られていないが、この30万米ドルはフランス政府に代わってオランダ政府がたてかえたものであり、しかも最終的にはシリア当局から返還された現金を関係者が現地で紛失するというおまけまでついたのだった。事件後も、オランダ政府が立て替え損となった30万米ドルをめぐって、仏蘭関係がぎくしゃくしたという。
 
酒井雅夫シェフ
酒井雅夫シェフ
親切な返事が戻ってきた。もちろん、お酒の呑み方ではない。洋菓子にお酒を生かす方法について学んでこい、というアドバイスだったのである。
その国の菓子は、その国の文化のすべてを反映している。和菓子が葛粉や茶道と切っても切れない縁でつながっているように、である。
小麦粉、卵、バター、アーモンドパウダー、砂糖などが洋菓子の材料であるが、洋菓子がそれで閉じているわけではない。洋菓子の世界を豊かにする酒文化がフランスにあり、そして、当時の日本にはなかったことを、高田は言いたかったのだろう。
「アドバイスを受けて行ったわけですが、ほんとうにびっくりしました。ありとあらゆる果物が果実酒になっているといっても過言ではなかった。そしてそれを、上手に使う。夢中で勉強しました」
という酒井は、いまでも酒使いの名手として知られている。ダークチェリーをチェリーブランデーに漬け込み、寝かせてからタルトに使うなどだ。果物の酸味を生かしながら、香り高き逸品に焼き上げる。いま店頭に並ぶグリオット(さくらんぼとショコラのお菓子)は、昨年のうちからキリッシュに漬け込み、1年間寝かせたさくらんぼを使っている。
一方で、漬け込みに使ったお酒を使って、ソースをつくる。これが毎年、6月に限定発売しているスリーズのソースだ。酒井の洋菓子のいくつかは、時間をかけて季節の果物とお酒のハーモニーをつくりあげてから、仕上げられている。
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感動しているんです
酒井がフランスに行った1974年は、世界が石油ショックに震撼し、経済社会がズタズタとなり、政情不安にもなった年だった。高度経済成長の歪みが、国内でも世界でも一挙に吹き出した頃である。
狂乱物価が市民生活を直撃し、三菱重工ビルが爆破され(8月30日)、日本赤軍がオランダでハーグ事件を起こした(9月13日)。年末には金権を批判された田中角栄首相が退陣し、椎名裁定により、三木武夫内閣が誕生している(12月9日)。
騒然とした世相の中、酒井は「渡仏したものの、仕事が見つからない」という憂き目に遇う。仕方なくスイスに渡り、あめ細工を学ぶことにした。芯が強いというか、肝の座った日本男児である。それだけの決意をしての渡仏だった、ということだ。
その後、あめ細工を学んだ学校からの紹介で、クレモン フェランにあるアトリアノンに行くことができたのは幸運だった。渡仏生活は合計4年間。最後の2年間はパリのダロワイヨで修行した。
「ハーグ事件の前に、アトリアノンに就職できていたのが幸運でした。あの事件のあと、日本人はなかなか雇ってもらえなくなったんですよ」
と酒井。修行の夢かなわず、失意のまま帰国する日本人を目の当たりにすると、頑張るほかはない。渡仏後3年目の1977年、酒井はシャルルプルーストコンクールで優勝を果たした。いまでは多くの日本の若者が海を渡り、このコンクールで優勝や入賞を果たし、お店の売り文句にしているが、その最初は、酒井だったのである。
翌年、帰国した酒井は、芝クレッセントにてパティスリー部門を独立させ、フランスで学んだものをすべてぶつけた。
「あの頃は、毎日が勝負でした」
と語る酒井の相手は、きっと日本文化そのものであったに違いない。本場で修行をしたといっても、その成果がすんなり日本人に受け入れられる保証はどこにもない。そもそも気候が違う、水が違う、材料が違う、お客様の舌が違う。なにもかもが違うのだ。 ←
三酒の神器
酒井シェフの三酒の神器。左からオレンジリキュール、チェリーリキュール(キリッシュ)、ラム。
クレーム・ダマンド
フランス菓子の基本中の基本のクレーム・ダマンド(Creme de almond)。なくなればすぐに補充する。アーモンドパウダー、バター、卵の調合こそがシェフの個性。
タルト
洋梨(上左)、チェリー(上右)、イチジクのタルト(下)。
フィリング
洋梨、チェリー、イチジクのそれぞれに、別々のフィリングが用意される。
事実、酒井の目が輝くのは、失敗談になったときのことである。計量ミスを代表例として、さまざまな失敗作が生まれることもある。しかし、そこで「売り物にならない」と捨てたりしないのが酒井だ。一口食べて、考え込む。そして、この失敗をリカバリーする方法はないかと創意工夫を始めるのだ。
「その結果、生まれたヒット作がたくさんあるんです」
という話をするときの笑顔は、自分がもつ技術への自信と、新しいお菓子を生み出す楽しさに裏打ちされたものである。日々、同じことを繰り返す中にも、自然体で創意工夫をするのが酒井流なのだ。
産地へのこだわりや、変わった飾りつけに頼ることはない。ただ粛々と、フランス菓子の基本を守った「自分のお菓子」を作っているのが酒井である。
だからごまかしのない、ホンモノの味わいがそこにあり、「ここのケーキなら、ホールを丸ごと一気に食べてもいいわ。おいしいし、もたれないもの」というファンを集めるのだ。
グリオットに使うフォンダンも、砂糖から酒井が手づくりしている。「いまどき、フォンダンを作っているシェフなんか珍しいですよ。そんなの、買ってくればいいじゃないですか」と出入りの業者に指摘されたことがあるそうだ。
「でもね、その業者が勧める既製品のフォンダンを食べてみたんだけれど、おいしくないんだよ。だから作っているだけのことなんだ」
というところが酒井の真骨頂である。東京・広尾——ここにはフランス生まれであることを捨てない、日本人のお菓子がある。
杏を使った新作お菓子
7月は杏を使った新作のお菓子が並んだ。杏を漬け込んだのはキリッシュではなく、杏のお酒・杏露酒である。
レーズンサブレの杏版・サブレアプリコット(上)
生の杏を使って焼き上げたタルト(下)

フランスの思い出
パッション「いまの若い人たちは、日本とフランスの情報の差異がほとんどないから、留学しても驚きがない。僕の時代は、すべてが初体験だったんですよ」という酒井シェフが、とくに驚いた果物は、「パッションフルーツ」だそうです。「こんな果物があることも知らなければ、これがこんなにおいしいお菓子になることにも驚いた」とのこと。いまでもクレモン フェランには、シェフが驚いたパッションフルーツのお菓子が並んでいます。


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(文・写真 古瀬幸広)